物語る身体。

最近、どんな舞台を見ても共通したことを感じたり、考えたりしているので、舞台の感想を交えつつ、今考えていることを書きます。


今月見た3つの舞台。

どれも見に行かなくてはいけない事情があって見に行ったので(たとえば家族が出演しているとかそういう素敵な事情ですよっ)、受動的な観劇だったと言えます。


■ひとつめ:

ボクラ団義「飛ばぬ鳥なら落ちもせぬ」@吉祥寺シアター


→和もの歴史時代劇ファンタジー。


■ふたつめ:

Mo'xtra Produce「グリーン・マーダー・ケース」@Geki地下Liberty


→海外推理小説原作。1920年代頃のNYが舞台。


■みっつめ:

あやめ十八番「ダズリング=デビュタント」@座・高円寺1


→古い時代の欧州貴族世界を舞台にしたダークな物語。


どれも楽しい観劇でした。

三つの作品に共通しているのは、舞台となるのが時代や国の違う〈ある特殊な世界観〉だったこと。


脚本が、世界観から物語をどう切り取ったのかに純粋な興味が持てたし、演出が、ここには存在しないその世界観をどう見せていたか、にもとても感心しました。


また、現実から逸脱した世界で繰り広げられる物語だからこそ、作家それぞれの人間観(恋愛・死生・忠義・残酷さなど)がより際立っていたように思い、とても面白かったです。


今私が生きている現実とは違う時代、或いは国での物語を、「異世界」の「創作」として素直に楽しめたんだと思います。

…たとえばそれとは反対に、『現代人が演じる現代人の書いた現代劇』だと、「んなことあるか、んなやついるか、あまりにご都合主義だしチープだな」なんて冷めてしまうことがよくあります。

これは〈自分の生きている現実〉と〈物語に現れてくる現実〉のリアリティラインによくない齟齬が生じてしまっている場合。

みんなが知っているもの・想像できるものは、上手に見せるのが余計難しいってことかもしれません。


そしてもちろん浮いた世界観の物語の中においても、その世界観ごとのリアリティラインが存在しています。
簡略化・抽象化・様式化された美術の中で、そのリアリティを色濃く映せるのは、俳優の演技ではないでしょうか?
そこで最近私が特に気になっているのは「身体」です。
和ものの世界なら、忍者・剣士・侍・殿・姫…など。
洋ものの世界観なら、金持ち・召使い・貴族・軍人…など。
役のパーソナルとは関係なく、様々なポジションの役が登場しますよね。
お姫様がバタバタ歩いてはおかしいし、乞食が気取って歩いても変です。
立て続けに、国や時代の違う舞台作品を見たことで、俳優はその役を物語るのに相応しい「身体」でいることがとっても大切なんだ!と強く感じました。


昔から「身体が使える・使えない」という言葉はよく聞きました。

これは、ダンスが踊れるか。殺陣ができるか。

というスキルだけではなく、役を体現できるかということだとすこしずう気付きました。

また逆に、ダンスや殺陣のスキルを身につけておけば、様々なポジションの役を演じられる身体づくりへの近道である、とも言い換えられるかもしれません。


物語や役への解釈・思いは間違っていなくても、身体が現代に生きる現代人のままでは足りないこともあるのだと感じましたし、では自分はどうか。舞台の上でなにかを演じる時に、よりその役の身体を探りたいと今思っています。

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